2017年11月06日
もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら
音楽ネタではありません。
エンターテイメント的文学ネタかな?
「もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら」という本よりご紹介致します。
村上春樹「1973年のカップ焼きそば」
きみがカップ焼きそばを作ろうとしている事実について、僕は何も興味を持っていないし、何かを言う権利もない。エレベーターの階数表示を眺めるように、ただ見ているだけだ。
勝手に液体ソースとかやくを取り出せばいいし、容器にお湯を入れて五分待てばいい。その間、きみが何をしようと自由だ。少なくとも、何もしない時間がそこに存在している。好むと好まざるとにかかわらず。
読みかけの本を開いてもいいし、買ったばかりのレコードを聞いてもいい。同居人の退屈な話に耳を傾けたっていい。それも悪くない選択だ。結局のところ、五分待てばいいのだ。それ以上でもそれ以下でもない。
ただ、一つだけ確実に言えることがある。
完璧な湯切りは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。
小林よしのり「焼きそばかましてよかですか」
わしは、カップ焼きそばを作るには、まず湯をわかせばよいと思っとる。
これは単純なことだ。サルにでもわかる。湯さえあればカップ焼きそばはできる。かやくを入れて麺をふやかせて、ソースをかき混ぜればできあがりだ。
こんな単純なことを、左翼は、左翼的偽善性をもって、湯をわかす正当性を主張しなければ、気が済まない。右翼は右翼で、湯をわかす大義名分がほしい。
こんなことをやっているからいつまでたっても湯はわかない。カップ焼きそばが作れない。
わしは現代のイデオロギーの不毛さが、このカップ焼きそば論争に集約されとると思っとる。
あえて、ゴーマンかますなら、いますぐ、この不毛さを理解してある種の洗脳から解放されろとわしは言いたい。
「もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら」
神田桂一 / 菊池良 著
宝島社
☆太宰治に夏目漱石…文体をまねてパロディー化 『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら』
‐藤井克郎
書かれている内容はただ一つ、カップ焼きそばの作り方だけ。それを太宰治に夏目漱石、ドストエフスキー、紀貫之と、古今のさまざまな文体をまねてパロディー化しており、6月7日の発売翌日に重版決定、5万部突破という驚異の売れ行きを示している。
そもそもは著者の一人、菊池良さんが昨年、ツイッターでつぶやいた村上春樹風カップ焼きそばの作り方がインターネットで話題を呼び、書籍化へとつながった。神田桂一さんとそれぞれ50本、計100パターンの文体が収められているが、面白いのは作家だけではないことで、プロのブロガーにユーチューバー、果ては求人広告に迷惑メール、女性向け自己啓発エッセーなんてものもある。
編集を担当した宝島社の九内俊彦さんによると、著者2人とも文学に精通しており、文体が染みついている作家も多かったという。「ただ改めて読み込んで、体に憑依(ひょうい)させてから書いていったみたいです。とにかく書店員さんの食いつきがよく、そこからパッと広がっていった感じですね」と話す。
現役の作家にも許可は取っていないというが、「ご本人からの反応はまだありません」とのことだった。
Posted by キ-ス・ジャレッ子 at 09:19